信仰を持つということ

 人がキリストに対する信仰を持つということにおいて根本的な問題は、キリストの愛すなわち神の愛を経験するということである。神の愛を了解すれば信仰を持つことができるし、神の愛を了解できなければ信仰を持つことはできない。これは信仰の形態全体に及ぶ問題であって、たとえばクリスチャンは聖書の全体を徹底的に分析してその正しさを客観的に証明して信仰に入るわけではないが、神の愛の了解によって救いの確信を得ることを通して、聖書全体の正しさもまた信じることになるのである。
 それゆえ、世間一般におけるたとえば神の存在・非存在、進化対創造といった対立・議論は、ほとんど無駄なものとならざるを得ない。なぜなら、信仰が神の愛の了解によるものであるとするなら、それは各個人の個別の経験による他はなく、客観的な分析によって得られるものではないからである。
 通常世間一般で行われている知的議論というのは、「私自身」という特異点*1を扱いかねているように見える。
 これはクリスチャンが宣教をする際にも、ややもすると見落とされている点である。つまりクリスチャンといえども一応世の中の常識的な論理の中で生活しているので、宣教においてもそうした常識的な論理の枠組みによって語ってしまう場合があるということである。しかし、宣教における最も重要で基本的な目標は人がイエス・キリストの十字架による救いを信じることであって、その他の内容は必然的にセットで信じることになるとしても、最優先ではなく、付随的なものである。その目的に照らせば、いかに神の創造が事実であるか、とか、いかに聖書が正しいか、とか、神が存在しているといえるのはなぜなのか、とか、そういった「私自身」を抜きにして語れるカテゴリーの問題を延々と述べ連ねても、実りはほとんど期待できないと考えられる。

*1:数学・物理学的に正確な用法ではないかもしれないが比喩としての特異点