キルケゴール『死にいたる病/現代の批判』中公クラシックス

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

キルケゴール(1813〜55)
「死にいたる病 教化と覚醒のためのキリスト教的・心理学的論述」(アンチ・クリマクス名,キルケゴール刊)[1849]
「現代の批判」(本名)[1846]

「死にいたる病」

序/諸言
第一篇 死にいたる病とは絶望のことである
 A 絶望が死にいたる病であるということ
  A 絶望は精神における病、自己における病であり、したがってそれには三つの場合がありうる。
       絶望して、自己を持っていることを自していない場合〔非本来的な絶望〕。絶望して、自己
       自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合
  B 絶望の可能性と現実性
  C 絶望は「死にいたる病」である
 B この病〔絶望〕の普遍性
 C この病〔絶望〕の諸形態
  A 絶望が意識されているかいないかという点を反省せずに考察された場合の絶望。したがって
       ここでは総合の諸契機のみが反省される
   a 有限性――無限性という規定のもとに見られた絶望
   b 可能性――必然性という規定のもとにみられた絶望
  B 意識という規定のもとに見られた絶望
   a 自分が絶望であることを知らないでいる絶望。あるいは、自分が自己というものを、永遠な
         自己というものを、もっているということについての絶望的な無知
   b 自分が絶望であることを自覚している絶望。したがって、この絶望は、ある永遠なものをうち
         に含む自己というものを自分がもっていることを自覚しており、そこで、絶望して自己自身で
         あろうと欲しないか、それとも、絶望して自分自身であろうと欲するかそのいずれかである
第二編 絶望は罪である
 A 絶望は罪である
  第一章 自己意識の諸段階〔神の前に、という規定〕
  付論  罪の定義がつまずきの可能性を蔵しているということ、つまずきについての一般的な注意
  第二章 罪のソクラテス的定義
  第三章 罪は消極的なものではなくて、積極的なものであるということ
  Aの付論 しかしそれでは、罪はある意味できわめてまれなことになりはしないか?〔寓意〕
 B 罪の継続
  A 自己の罪について絶望する罪
  B 罪の赦しに対して絶望する罪〔つまずき〕
  C キリスト教を肯定式的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪

おお、たわいもないアンチクリマクスよ、あるものが一切の悟性を超越しているということが、三つの――理由で証明されるとは。三つの理由、それは、もしそれがなにかの役に立つものだとしたら、一切の悟性を超越してはならず、むしろ逆に、この浄福がけっして一切の悟性を超越するものではないことを、悟性に悟らせねばならぬはずではないか。だって、「理由」とは、もちろん、悟性の領域内にあるものだからだ。(192)

(アンチクリマクス)

(31)修辞学の用語で、だんだん力の弱い語ないし文章を重ねていく修辞法をいう。悟性を超越したことを三つの理由を挙げて証明しようとすると、一つ、二つ、三つと理由を挙げるごとに、それらの理由は、事柄を証明するどころか、証明力をだんだん弱めていくばかりである。恋にしても祈りにしても、悟性の証明を超越したことだからである。だから、たわいもない、と言っているのである。(251)

「現代の批判」

 関係が存続しているということは、つまり関係が事実であるということは、ただ人心を麻痺させるだけのことである。ところが危険なことに、そのことこそが反省の潜行性腐蝕作用を助長するのだ。というのは、暴動にたいしてなら権力を行使することができるし、故意に量目をごまかしたというのなら、刑罰を期待できるのだが、弁証法的な秘密主義というやつは根絶しがたいからである。曖昧さという抜け道を音もたてず忍び歩く反省の足音をかぎつけるためには、どうしても相当敏感な耳が必要なのだ。
 現存するものは現存しているのだが、情熱のない反省というやつは、現存するものを曖昧なものにしてしまわぬと安心しないのだ。国王の権力をなくしてもらいたいなどと思っている者はありはしない。だれもけっしてそんなことを望んでいはしないのだが、しかし国王の権力を徐々になにか架空のものに変えてしまうことができたら、喜んで国王万歳をとなえようというわけなのだ。なにも傑物の失墜したさまを見たがるわけではない。けっしてそうではないのだが、それと同時に傑物が一種架空なものだという知識を振りまわすことができたら――讃嘆してもらえるだろうと考えるのだ。
 キリスト教の用語を全部そっくりそのままにしておきたいと思う、がしかし、そんな用語では決定的なことはなにも考えられはしないということをひそかに知っていたい。こうして後悔などしないでいたいのだ。なるほど、なにひとつ破壊するわけではないのだから、後悔することもないわけだ。(284)

 水平化がほんとうに成り立ちうるためには、まず第一に、ひとつの幻影が、水平化の霊が、巨大な中小物が、一切のものを包括しはするが実態は無であるなにものかが、ひとつの蜃気楼が作り出されなければならない。――この幻影とは公衆である。情熱のない、しかし反省的な時代においてのみ、それ自体が一個の抽象物となる新聞に助成されて、この幻影が出現しうるのである。 (303)