永井均『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』

西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

西田幾多郎(1870〜1945)

目次
第1章 純粋経験―思う、ゆえに、思いあり
 ・長いトンネルを抜けると―主客未分の経験
 ・知即行―真理と意志は合致する
 ・デカルトVS.西田幾多郎
第2章 場所―「絶対無」はどこにあるのか
 ・言語哲学者としての西田
 ・自覚―「私を知る」とはどういうことか
 ・場所としての私
 ・場所的論理―西田論理学の展開
 ・絶対無
第3章 私と汝―私は殺されることによって生まれる
 ・思想の体系化
 ・田辺元の西田批判
 ・存在する私への死

今回借りてきた3冊の「シリーズ哲学のエッセンス」の中で最も面白かった。これでこのシリーズはクリプキウィトゲンシュタイン、カント、ライプニッツ西田幾多郎の6人について読んだことになる。今回借りてきた中のフッサールは途中で難しくなり、またあまり面白くないので保留中。
永井の論じる西田哲学は、聖書的な考え方と相通じるところがあるように思った。「私は殺されることによって生まれる」という死と復活に連なるような考え方や、絶対無としての神という考え方に、私は信仰者として共感をもって接することができる気がする。もちろん、哲学の素人である私の共感が誤解に基づくという可能性もおおいにあるだろうが。
しかし、このように共感的に読むことのできる哲学に触れることで、あらためて信仰と哲学の違いについて考えさせられる部分もある。それは、イエス・キリストを中心に据えることができるかどうかという点である。哲学は、きっと神の存在にまでは触れることができるのではないかと思う。しかし、万物の創造者なる神にして完全な人となり、死して復活することで完全な人類の贖罪を成し遂げ、やがて再臨し、神の国の王として治めるキリスト、という途方もない存在としてのキリストを捉えることこそ、哲学のできないことかもしれない、と思ったりする。もちろん「キリスト教的な概念」に頼ろうとする哲学は散見されるけれども、真に固有名のイエス・キリスト、肉体をもった神であるキリストそれ自身を受け入れない限り、行きづまりを免れることはできないであろう。