『ハイデガーとキリスト教』

ハイデガーとキリスト教

ハイデガーとキリスト教

[1994]→[2013] 原題は「Heidegger and Christianity」

目次
はじめに
第1章 経歴と初期の著作
第2章 日常的な非本来的実存
第3章 覚悟した本来的実存
第4章 形而上学と神学
第5章 物と技術と芸術
第6章 思惟と言語と詩
第7章 ただ神のごときものが我々を救うことができる
第8章 残された諸問題

訳者付論 『存在と時間』と実存主義的神学――ハイデガーとブルトマン
訳者後書き

今読んでいるところ。クリスチャンにはこういうのがいいのではないかと思って借りてきた。
帯には「ハイデガーとその思想への入門書 聖職者を志したこともあるハイデガー。その根底にあるキリスト教思想との緊張関係に焦点をあてる。」とある。
帯にも記載されている「第1章」からの引用。

(略)若きハイデガーは熱心なカトリック教徒であり、当然のごとく聖職者になることが運命づけられていたようである。数年間、彼はイエズス会の神学校に通っていた。後にハイデガーは「神学的な出自がなければ、私は決して思惟の道に至ることはなかったでしょう」と書くことになるが、そう書かしめる経験をハイデガーは神学校でしたのである。特に彼は解釈や解釈学の重要性に気づき始めていた。(p.8)

訳者後書きによると、著者のマクウォーリーは英国教会の神学者。オックスフォード大学で教授だった。実存哲学、特にハイデガー哲学に精通した著名な学者であり、『存在と時間』の英訳者の一人である、と紹介されている。
第8章第1節「ハイデガーを翻訳すること」で、『存在と時間』の翻訳事業に至ったエピソードが書かれている。もともとは新約聖書学者ルードルフ・ブルトマンの研究をしようとしていて、ブルトマンをやるなら、ブルトマンが影響を受けたハイデガーをやらねば、と勧められ、『存在と時間』を読み始めたらはまってしまった、ということらしい。

運命・宿命という概念と、ハイデガー国家社会主義

ハイデガーが運命や宿命に関して語るとき、彼の胸中は如何様であったのだろうか。「遣わし」*1は何処から来るのだろうか。すでに我々は被投性という構想を承知している。現存在は自分自身を創造したのではなく、かつ、実存することを選択したのでもない。それ故、現存在が生へ遣わされ、同時に死へと遣わされていることにはある意味があるのである。遣わすものは全く匿名であるのだろうか。キリスト教徒であるならば、神が遣わすものであると解答するだろう。ハイデガーはかくのごとくには答えないのである。ハイデガーが『存在と時間』を執筆していた時、自分の論述から神を断固として締め出したのである。「神」というのか、あるいは曖昧な「運命」という表現のみを用いるのか、これは重大問題ではないだろうか。このことは、個人について語っている場合であるならば大した問題ではないのだろうが、大規模な集団の「宿命」に関して語ることになるならば、我々は危険な立場にいることになるのである。ドイツ民族の宿命とは国家社会主義において荒れ狂った理念の一つであった。かくのごときドイツ民族の運命は、仮にキリスト教的に理解するならば、神が是認しえたものであろうはずがないのである。ハイデガーの哲学における何が彼を国家社会主義に共感させたのであろうか。誰かがかくのごとくに私に問うたとするならば、一九三〇年頃のドイツの状況において看取されるがごとき、ハイデガーの歴史と運命に関する発想である、と答えざるを得ない。(p.70,「第三章 覚悟した本来的実存」)

読了して(10/22)

しばらく前に読了したので、内容をほとんど忘れてしまった。キリスト教信仰と関係しそうなところをかするけど、ことごとく寸止めしまくるハイデガー、みたいな印象でいいんでしょうか。マクウォーリーさんは、ハイデガー哲学は信仰にとって重要な洞察を与えることができると考えているようです。しかし、私の頭が悪いのか、そういう意義を見いだすことはできませんでした。
ただ、キリスト教との距離という視点で解説された哲学、という点ではクリスチャンの自分には面白かったです。結局、面白かった以上の実のある話ができない自分の無知が明らかになりました。

*1:同書p.68より。ドイツ語の「運命Schicksal」という語と「宿命Geschick」という語に共通する-schick-という音節は、動詞schicken「遣わす」に由来する。