ジャック・ラカン(小林芳樹編訳)『ラカン 患者との対話―症例ジェラール―』(人文書院)

プロローグ

第一幕 対話編――ラカンと患者の対話
   1 患者ジェラールの生い立ち
   2 対話記録(一九七六年二月一三日 於パリ・サンタンヌ病院)

第二幕 理論編
   1 鏡像段階 
   2 エディプス・コンプレックス、去勢
   3 父の名の排除、ファルス機能の排除、症例シュレーバー 
   4 ボロメオ理論、父の名の欠如/ファルス機能の欠如、症例ジョイス
   5 内省型精神病と非内省型精神病、症例アンネ・ラウ

第三幕 解決編
  1 症例ジェラール――ラカン的精神病(内省型精神病)
  2 ラカン的技法

第四幕 現代におけるラカン――普通精神病と自閉症、現実感を巡る議論
   1 普通精神病の提唱
   2 自閉症に対するラカン派の視点

エピローグ――日本におけるラカン精神分析実践の可能性(原発の傍らに)

 面白かった。やっぱり最近自分が精神分析にひかれるのは、すごい伝道に応用できそうという部分があるからだなということに気づいて来た。ラカン無神論者だというのも根拠ないらしいし、神学的な素養に基づいている部分もかなりあるということが分かって、やっぱりなあという感じ。知り合いのクリスチャンとかに精神分析勉強してるとか言われたら怒られちゃうかもしれないけど、しばらくお付き合いしてみようかと。

ちょっと気になったこと

 ラカン派の小笠原晋也という人はカトリックらしいのだが、彼のブログ記事で次のようなところがあった。

福音書の話のなかで,イェスは僅かなパンと魚を分けて数千人の群衆を満腹させました.そのような満足が救済の具体的なイメージです.
http://ogswrs.blogspot.jp/2014/08/16.html

 これはちょっとミスリーディングだなと思った。引用した記事の後の方では「飢え渇いていること」が天の宴に招かれる条件だと続いているので、ある程度本質的な部分は分かっていると思うのだが、群衆がパンと魚によって満腹したことは、福音書の文脈の中ではあくまでも肉体的な満足でしかないのであって、イエス様はそういう満足ばかりを求めていてもだめなんだよ、という話をする。つまり、肉体的な満足をイエス様が与えた記事は、肉体の満足を超えた「永遠のいのち」にあずかることとの対比のために提示されているという側面があり、群衆が肉体的に満足したことを即救済のイメージに結びつけるのは福音書記事の文脈から考えて誤読の可能性が高いと思う。
 所詮、給食の奇跡を奇跡ととらえられない似非信仰者の言うことなどまともに取り上げても仕方がないのだが、少し気になったので書いてみた。ただ、やっぱりラカンキリスト教的な概念をキリスト教的な装いをしないで語っているようなところがあるよなあという思いを強くした。

ジョン・F・ワルブード『イエス・キリストの黙示 ヨハネの黙示録注解』

[1966]→[1980](いのちのことば社
 ディスペンセーション主義の牙城、ダラス神学校校長も務めた著者による注解。翻訳はこどもさんびかや、ティンデル聖書注解シリーズの訳者としても活躍している山口昇。
 ディスペンセーション主義者らしく、やはり3章と4章の間に携挙前/後の区分を読み込んでいるが、これは患難前携挙の考え方がまず前提にあるからこそ出てくる読みであって、自然に証明されるものではないと思われる。

「七つの教会の御使い」については、それぞれの教会の人間の使者、これらの教会の指導者として捉えている。これは私の父親とも同じ解釈である。J.B.カリーや岡山英雄は霊的存在である「天使」としており、レオン・モリスは「教会の霊」あるいは「教会の本質を示す象徴としての霊」という解釈をしている。モリスの解釈には私はあまり好意的ではない。やはり霊的存在としての御使いか、教会の指導者か、どちらかの意味で考えるべきだと思われる。「天使」のことであると考える利点は、黙示録の他の箇所ではすべて明らかに「天使」のこととしてこの言葉が使われていることと整合性が取れることである。しかし、七つの手紙の内容は教会に対して書かれたものであり、「天使」に対してこのような内容の手紙を書き送るという手続きを取る意味が不明だという難点がある。岡山英雄はその点について、黙示録において、ヨハネが御使いを通して様々な啓示を受け取っていることから、黙示録では「御使いを通して人間への真理の開示がある」という原則を見て取っているようである。

 七つの教会が、教会史の七つの時代区分を表しているという解釈については、ディスペンセーション主義者にしては珍しく、ワルブードの態度は比較的穏健であり、七つの時代区分に当てはめることにこだわることへの懸念をやんわりと表明している。しかし、七つの教会の並び順によって、何らかの発展性、時代の流れを表しているという解釈自体は彼もしているようである。

フロイト『夢解釈<初版>』

承前

夢解釈 〈初版〉下 (中公クラシックス)

夢解釈 〈初版〉下 (中公クラシックス)

下巻p.121、「立法学者」は「律法学者」の間違いかな。

Geseresは、ユダヤの立法学者から教えてもらったところでは〜

過剰バッシングのメカニズム

さて、しかしまた、私の憎悪する人が、一線を踏み越えて、その報いとして何か不愉快な目にあうということもある。こうなると、その人が当然の罰を受けたことに、私は何のためらいもなくおおいに満足できる。そして、私は、公正な他の多くの人々とそれについて思いをともにしながら、自分の意見を述べる。しかし、その際、観察してみると、私の満足は他の人々の満足より強度が高くなっていることがわかる。私の満足は、私の憎悪の源泉からの肩入れをされている。その憎悪に対しては、それまで内的な検閲によって情動の供給が妨害されていたが、しかし、状況が変わったため、もはや妨げはない。こうした事態は、反感をもたれた人々とか、好意的には見られていない少数派に属する人々が罪を犯したとき、社会一般で起きることだ。そうした場合、彼らに対する罰は、通常その罪科に対応しない。その罰は、罪科に加えて、彼らに向けられてはいたが、しかし、それまで実行のなかった悪意の分、重くなる。その際、罰を与える者は疑いなく不正義を犯している。しかし、彼らはそのことに気づかない。彼らの内で長いあいだ確固として持続していた抑え込みの取り消しによってもたらされる満足に妨げられて、それに気づかなくなるのである。こうした場合において、情動はその質面では正当であるが、量の面では正当ではない。(下巻、p.165-166)

図星を指されたからこそ気にして興奮するという話

誰でもわかることだが、「確かに当たっている」という非難でなければ、気にはかからず、興奮を惹き起こす力はもたない。(下巻、p.170)

フロイト『夢解釈〈初版〉』

夢解釈 〈初版〉上 (中公クラシックス)

夢解釈 〈初版〉上 (中公クラシックス)

裸体をさらす夢について

恥の欠如したこの幼年期をのちになって振り返ってみると、まるで天国のように思える。そして天国それ自体、個々人の幼年期についての集合的空想にほかならない。それゆえにまた天国において人々は裸で、互いに恥じることもない。ところがあるときついに恥と不安が目覚め、それに追放が続き、性生活と文化的な仕事が始まる。さて夢は毎夜、私たちをこの天国へと連れ戻すことができる。そしてすでに推測として表明したことだが、幼年期の最初の時期(ほぼ満三歳までの先史的な時期)に生じた印象それ自体が――それがどんな内容であるかなど恐らくおかまいなしに――再現を求めるのであり、その印象の反復が欲望充足となる。裸体の夢とはすなわち露出夢である。(上,p.313,第5章「夢の素材と夢の源泉」,(d)類型夢)

まるで聖書のエデンの園追放のことを書いているかのような記述だ。アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べて罪を犯すまで、丸裸の状態で互いに自分を恥ずかしいと思わなかった。
「天国」と訳されているところがヒンメルなのかパラディースなのかがちょっと気になる。

ナウシカについて

オデュッセウストロイア戦争の後、数々の苦難を経て故郷イタケーへ向かう。故郷へ帰りつく直前にポセイドンの怒りに触れ、オデュッセウスの筏はスケリア島に漂着する。ナウシカアはその島の王女で、身につけるもの一つないオデュッセウスを救う(上,p.385,p.315の注227)

ナウシカってこれが元ネタだったんか! 無教養で知らなかった。ここに描かれる慈母的な性格は風の谷のナウシカとも共通するかもしれない。

レオン・モリス『ヨハネの黙示録』

ティンデル聖書注解 ヨハネの黙示録

ティンデル聖書注解 ヨハネの黙示録

[1969]→改訂第二版→[2004]
聖公会は基本無千年王国説らしいけど、あまりその辺は強調されておらず、比較的バランスのとれた注解になっていると思う。ただ、やはり細かい部分は自分で解釈していかないとならないなと思う。聖書学者の象徴解釈はかなりおおざっぱなところがあるような気がする。
方法論として、歴史的な読み方をすると、象徴的な部分の解釈についてはたいていの場合読み違える。しかしたぶん、聖書学者はそういう方法論が染みついている。聖書の内的な論理が重視されていないわけではないがそこに徹底しきれない、そんな聖書学者の弱点をいつも見る気がする。